乙一という作家

僕は小説であれ映画であれ、あらすじを表層的に捉えて終わりにするんじゃなくて、そこで表現しようとした作者の意図を理解しようとする。ブログで書くレビューが時折中途半端に感じるのは、僕が「ネタバレ禁止」をモットーとしているから。 というわけで今日は作家・乙一の話。 『夏と花火と私の死体』で第6回ジャンプ小説・ノンフィクション大賞(集英社)を受賞。若干17歳(執筆当時は16歳)という若さでデビューし、特異な状況設定や多岐にわたる作風で注目を集めた作家・乙一。映像化不可能と評される彼の作品は小説という媒体だけがもつ表現方法をテクニカルに盛り込み読者を欺く。 小説を読んでいて手に汗をかいたのも、後ろを振り返るのが怖くなったのも、人間の暖かさを感じたのも、純粋な思いに触れる愛おしさを感じたのも、彼の作品が初めてだった。そして活字だけしか使えない極めて不自由な媒体だと思っていた小説が、実はこんなにも自由な表現方法を持ったものなんだと感じさせてくれたのも彼の作品だった。 彼の作品が映像化不可能といわれる要因の一つに「人称の入れ替え」が挙げられると思う。例えばAの視点で物語が展開されていると思ったら、途中からBの視点なんじゃないかって思いはじめて、実はCの視点だった。で、それがどこで入れ替わったのかよく分からず、読後はキツネにつままれたような感覚になる。 これ自体はよくあるテクニックなんだけど、彼の場合はこのA・B・Cが必ずしも人間だとは限らない。あまり詳しく書くと、これから読む人の楽しみがなくなっちゃうからこれ以上は踏み込まないけど、とにかく読者を楽しませることを徹底していて、気持ちよく爽快に裏切られる感覚が味わえる。 映像化不可能といわれていても全てがそうじゃないし、これだけ個性的な作品を書く人だから、いくつかは映像化されてる。 例えば 『暗いところで待ち合わせ』。

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一人暮らしをしている盲目のミチルの家に男がこっそりともぐりこみ奇妙な共同生活を送る。実はこの男、先日起きた駅での殺人事件の容疑者なんだけど、ミチルに危害を加えるでもなく、ただただひっそりと見守り続ける。 その目的は何なのか。 男の存在にミチルは気付いているのか。 ミチルが男の存在に気付いていることを 男は気付いているのか。 そんな緊張感が心地いい。 原作モノを映像化するに当たって、内容の一部が変更されることはよくあることで、この作品もその例に漏れない。この作品は二人が「一人ぼっち」という共通点を持っていることがポイントなんだけど、それを強調する為か男の国籍が日本人から中国人に変更されている。 つまりは在日中国人に対する偏見や差別を「一人ぼっち」を表現する要素として使ってるわけだけど、それはあまりにも短絡的すぎる。しかもそのことが、この男を理解する上で必要な要素を歪めてしまっていて、作者が描きたかったであろう人物像と少し乖離してしまっている。これは大きなマイナスだと思う。 あとラストの処理の仕方があまり上手くいっていないことを除いてはとてもいい作品で、特にミチル役の田中麗奈は、人間の中身を見つめる優しい心を完璧に表現している。 この作家(とこの作品)に興味を持ったのであれば、ぜひ小説から読んで欲しい。そんなに長い作品じゃないから簡単に読めるし小説でしか味わえない楽しみがたくさんあるから。 小説を読まずに映画を観てしまった人が不憫でならない。だってもうあの小説での楽しみを一生味わえないんだから。原作モノの映画は一般的に、「原作→映画」っていう不可逆性が存在するけど、そうじゃないのもある。 それが 『きみにしか聞こえない』。

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クラスで唯一ケータイを持っていないリョウは、友達がいなくて学校で孤立している。現代においてケータイを持っていないということがどういう意味を持つか。ケータイを欲することは、つまり友達を欲することで、現代の若者の心理を鋭く突いていて痛々しい共感を覚える人も多いと思う。 だけどこの映画はそういったリョウの「絶望的な孤独」を描ききれていないので、いまいち感情移入しにくい。だからこの映画を見るときは「リョウは気が狂いそうなくらいの絶望的な孤独の闇の中にいる」と脳内補完して観て欲しい。

ある日リョウはおもちゃのケータイを拾うんだけど、このケータイが突然鳴り出して電話の向こうの青年と会話ができるようになる。この声というのが脳に直接伝わるもので、簡単に言えば「思念」のようなもの。だから画面上での会話はほとんどなくて二人のナレーションベースで物語が進行していくって言う変わったつくりになっている。それぞれの事情を抱える二人が会話を通して心を通わせていくというストーリー。 この作品も映像化されるに当たって一部設定が変更されてるんだけど、この変更というのがおそらく作者も悔しがったであろうと思うほどの絶妙な変更をしている。それは「相手役の青年が耳の不自由な男である」というもの。耳が聞こえないということは当然ケータイで話すこともできない。だけどこの思念による会話は直接脳に届くから会話が成立するわけだ。この変更によって物語の結末はえらく感動的で切ないものになった。 映像化するに当たって「リョウの孤独を表現できていない」というマイナスと、それを補うほどの設定変更によって小説とは違った印象のものとなった。だからこの作品に限って言えば、小説と映画どちらから入っても楽しめる。 ・・・けど、どちらかといえば やっぱり小説から読むことをオススメするかな。 この2作品を観ると、乙一が純粋で暖かい作風が特徴の作家であるかのように思うかもしれない。だけど彼の作品のもう一つの大きな特徴は恐怖の描き方だ。 映像化はされてないけど『GOTH』はその最たるモンで、その恐怖は病的で猟奇的といってもいいかもしれない。その恐怖と冒頭で触れた人称転換の技法によって様々な叙述トリックを仕掛けてくる。 この二面性が彼の特徴で、前者の切なさや繊細さを基調としたのを「白乙一」、後者の残酷さや凄惨さを基調としたのを「黒乙一」と呼ぶ・・・らしい。 僕は乙一の作品の中で『GOTH』が一番好きだ。それはただ単に怖いだけの話じゃなくて、どこかに人間の本質のような部分を心の闇のようなものを挟んでくるからだ。

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といっても、そんなに深読みするような作品じゃないんだけど。 とにかく彼の作品は読者を楽しませようというエンターティナー精神に溢れているので、このお盆休みにでもぜひぜひ読んで(もしくは観て)みて欲しい。


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