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投げ捨てたフリをしていた「何か」

社会生活をしばらく続けていると、理想とかけ離れた、自分の望まない形で他者の評価を得るということがままある。そのような状況に直面したとき、自分ならどうするか。本意ではないにしろ、その状況を甘んじて受け入れ、他者の求めに応じていればこの先も一定の評価を得られ、それなりの立場を確立できるかもしれない。しかし捨て去った理想には未練が残る。理想を追い求めても、その努力が実を結ぶとは限らないが納得した人生を送ることはできるかもしれない。これは生き様の問題だ。

刀を持たない侍と言うのは、平和への願いを込めた武器を持たない国家のメタファーであるか、若しくはモノへの執着から未練や本質を断ち切れない現代人の性をシニカルに描いたものなんだろうけど、それを映画としてどうまとめたのかが気になるので、『さや侍』を観に行ってきた。

結論から言えば、「映画としては破綻しているが、好きな作品」ということになる。映画という表現手法が発明されて久しいが、そんな中、今まで誰もやっていないことをやると宣言し松本人志は監督デビューした。誰もが無謀な挑戦だと思いつつも、いつか何かやってくれるのではないかという期待をもたれている稀有な監督だ。そんなわけだから前衛的な内容の前2作は当然のように興行的には失敗し、映画としてもイマイチだったが、見たことないものを見たという印象は誰もが持ったはずだ。それらに比べると今回は、一応ストーリーらしきものはあるし、観客を楽しませようというサービス精神も垣間見える。映画でも音楽でも建築でもそうだが、当然のこととして〔好き/嫌い〕と〔良い/悪い〕は別のものとして分けて考えなければならない。だから、絶対的にいい映画であっても嫌いなものはあるし、その逆も然りである。その観点に立ってこの映画を批評すると「映画としては破綻しているが、好きな作品」になる。映画は脚本が全てだと思っている。だからこの映画もあと半年、脚本を作りこむ時間があればちゃんと完成された作品になっていただろう。

ある事情から刀を捨てた武士、野見勘十郎(野見隆明)。未練がましく鞘だけを腰に挿し、娘のたえ(熊田聖亜)と旅を続ける彼は脱藩者として追われる身であった。やがて捕らわれの身となり切腹を言い渡されるが、この藩には、母を亡くして以来笑わなくなってしまった若君(清水柊馬)を一日一芸・三十日以内に笑わすことができたら無罪放免となる「三十日の業」が課せられるという風習があった。

侍である本来の生業や生き様とはかけ離れているが、それなりの才能を発揮する野見勘十郎。やがて周囲を魅了し観衆の心を捉えることはできるが、若君だけは笑わせることができない。はたして野見勘十郎は無事、無罪放免となることができるのか。

(以下、ネタバレを多分に含む内容になっているので、これから観ようと思っている人は注意。ネタバレのない範囲でこの映画を理解するためのヒントとして、エンドロールの途中に挿入される真のエンディングで野見と共に映っている人物に注目すると、この映画が誰に向けて作ったものなのかがわかるようになっている)

侍としての父を誇りに思っていた娘・たえは、殺し屋から逃げ回る父を軽蔑し、罪人として生き恥をさらし続ける父に軽蔑を深め、そんな父に侍としての生き様を説き、実の父である野見に対し早々に自害するよう強く促す。しかし必死に業をこなし、刀を持たずに戦い続ける父の姿を見ているうちに、軽蔑が敬意に変わり、やがて尊敬し協力するようになっていく。そうした娘・たえの心の変化を丁寧に描いていく。

しかし一方で、主人公である野見勘十郎の内面を一切描かない。素人である野見隆明をキャスティングした時点で彼に多くを語らせる気がないことは百も承知だが、それならば周りの人との関わりの中で彼の内面を描くことが必要だった。“空虚な中心”を描くにしても、その描き方がある。そこを描かないから野見の「内面/行動原理」がわからないし、最後にとった彼の行動が突飛に見えてしまう。“彼がどのような「内面/行動原理」の持ち主なのかを最後の行動で示した”と捉えられなくもないが、それならそれで野見が何に苦悩しているのかは描かなくてはならない。

この監督が致命的なのは、記号は示すが、その内容を描写するという発想がないという点だ。記号とはつまり「さや侍=心優しい、でも訳ありな感じ」「カッコ悪いことを一生懸命する=かっこいい」「切腹=男の意地を貫いた感じ」「父から娘への遺言=泣けるやん素敵やん」などだ。その後の解釈を観客に委ねるのはいいとしても、記号を示してそれらをつむぎ合わせるところまではやはり監督の仕事であろう。当然、映画は義務教育じゃないんだからすべてを説明する必要なんて全然ない。だけどそこまで観客に委ねてしまってはもはや映画ではなくなってしまうのではないだろうか。パッチワークだってつなぎ合わせなければただのボロキレではないか。全体として作品になっていないと意味がない。これがまず一つ目の失敗。

この映画はさまざまな解釈ができるように作られている。映画とは純粋なエンターテインメント作品を除けば、そのほとんどすべてが二重構造になっている。たとえば有名な『ウサギとカメ』の話を、単に「ウサギとカメが競争をしてカメが勝った話」として捉えている人は一人もいない。それを横糸とするならば、「どんなに能力的に優れていてもサボっていれば、コツコツと努力を積み重ねてきたやつには敵わない」という教訓が縦糸として織り込まれていることを誰もが知っている。『ウサギとカメ』は話が単純だからこの二重構造を誰もが読み取ることができるが、なぜか映画となるとみんな横糸しか見えていないのが不思議でしょうがない。表面的な横糸だけを見て面白いだのつまらないだの好きだの嫌いだのと言っている。映画の見方に決まりはないからいいんだけど、少なくとも映画を理解したことにはならないので、〔好き/嫌い〕を言うのはいいが〔良い/悪い〕〔面白い/つまらない〕は決して論じてはならない。

話を戻すと、この映画も当然二重構造になっている。「野見勘十郎が“三十日の業”という科刑を背負わされ、色々と滑稽なことをやらされる。はたして若君は笑顔を取り戻すのか」が横糸。で、「刀を捨てた父親と、それを軽蔑する娘の絆の再生の物語」が縦糸だ。この映画は基本的に前者を推進力に進行し、最終的に後者のフィールドに落ちるのだが、落ちとなる後者がドラマとして成立していない。

娘が改心し、無様でも良いから父に生きてほしいと願い、父もその思いに応えるような描写がある。父が娘の手を握り、娘が満面の笑みで町を歩くと言うものだ。しかし野見はそのときすでに決心していた。(ここまで読んでやっぱり劇場で観ようと思った方は、この先を読む前に観たほうが良いです)

そこへ到る経緯はあえて触れないが野見は結局、三十日の業を終えた後も尚、生存の可能性を残しつつ切腹の場へ向かうことになる。しかし野見はその可能性を捨て、“自らの意思で”自害する。そのとき脳裏にこだまするのが、娘が改心する前の父への罵声だった。

「それでも侍ですか。侍なら侍らしくご自害なされてはいかがですか」

娘の改心を認めながらも、改心する前の娘の声をリフレインさせ、それを引きずって自害すると言うのでは話の前後関係が矛盾し構造的に成立しない。仮にこの物語の落としどころが親子の断絶であれば良いのだが、しかしそうではなく、この映画は最後に父から娘への手紙を読ませ、親子の愛情/絆というところに物語を落とす。親子愛を描くお話ならば、最後野見は親子愛を獲得しなければおかしいわけで「娘との生」を拒絶して「武士としての死」を選んではお話は破綻してしまう、というわけだ。つまり娘の撤回と野見の選択がシンクロしていないのだ。これが二つ目の失敗。

「再生の物語」の結末が親子の断絶であれ絆であれ、どちらの解釈をしても腑に落ちない決定的な要素がある。それは野見がどのような思いで三十日の業を行っていたかと言うことだ。恥をさらしてでも娘と生きていくために行っていたとしたのなら、自ら自害することと辻褄が合わないし、最後まで侍としての生き様にこだわったのなら、そもそも三十日の業に精を出すこと自体がおかしくなってくる。つまりその理由が描かれていないから野見という人物が最後まで分からないのだ。野見の行動がすべて唐突に思えてしまう。これが三つ目の失敗。

最後は失敗とは言い切れないけど、手紙を読むシーンの演出が見る人によっては違和感を感じて一瞬映画の世界から現実に戻されてしまいかねない突飛なものになってしまっている点だ。おそらく『ダンサー・イン・ザ・ダーク』をやりたかったんだろうけど、あれはそれまでにいくつか布石を打って観客に違和感を抱かせないように計算された演出があった。『シネマ坊主』の中で監督がこの映画に高評価を与えていたのでおそらくその辺についても理解しているものだと思っていたけど、自分の作品となると盲目的になってしまうのだろうか。

これらの失敗は実は簡単に修正できるものだから惜しい。最初に述べたようにすべて脚本を作り込めば解決してしまうのだ。一つ目の失敗を改善するならば、人間性が分かるエピソードを挿入すればいいし、二つ目であれば心の葛藤を描けばよい。三つ目は難しいけど、例えば、三十日の業を行うのは自分のためでも娘のためでもなく若君ためだと言うことにすればよい。将来のある若者が刀を捨てた侍のようになってはならない、笑顔を取り戻せ、と。最後の突飛な印象を回避するには、その前に映像と音楽がシンクロするような演出のシーンを見せておけばよい。これらは監督の才能があるとかないとかの問題じゃなくて、単に技術の問題なので、第三者がブラッシュアップすればよいのだ。

これだけ批判的なことを書いてきたにもかかわらず、それでもこの映画が好きだと言う理由は、自分なりの解釈が出来る程度の要素は描写されていたと言うことと、これだけ語ることがあるということ。そして何より最後に読まれる手紙が文章としてとてもきれいな構造をしているからだ。最後にその手紙の全文を書いて締めとしようと思う。

『父から娘へ ~さや侍の手紙~』

父は、死にました。

でも、心配しないでください。

父は、死にました。

でも、生きていた時よりも、元気です。

血を、見ましたか?

美しかったですか?

醜かったですか?

首は、転がり落ちましたか?

上を、向いていましたか?

下を、向いていましたか?

投げ捨てたフリをしていた「何か」に、

少しずつ、追い詰められていくような思いの中、

あなたは一生懸命、父の背中を押してくれました。

もう一度、その「何か」に立ち向かわせようと、

一生懸命、父の背中を押してくれました。

父は、「侍」でしたか?

誇りますか?

恥じますか?

恨みますか?

父は、「侍」でしたか?

父は、死にました。

でも、心配しないでください。

父は、今、母と一緒にいます。

あなたにとって、幸なのか不幸なのかはわかりませんが、

親と子の「絆」は永遠です。

もしかしたらこうして初めて親と子の「絆」は

永遠となるのかもしれません。

もし、会いたくなったら、愛する人と出会い、

愛する人を愛してください。

巡り 巡り 巡り 巡って

あなたが 父の子に 生まれたように

巡り 巡り 巡り 巡って

いつか 父が あなたの子に 生まれるでしょう。

巡り 巡り 巡り 巡って

ただ それだけですが それが すべてです。

巡り 巡り 巡り 巡って

ただ それだけですが それが すべてです。

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