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A PLACE IN THE SUN

年が明けて早1ヶ月。新しい年を始めるに当たってまずしたことは、昨年やり残したことを改めて自己認識することだった。何かをやり残したまま新しいことを始めるのは、なんか気持ちが悪いと思ったからなんだけど、去年の1月から順にやり残したことを思い返そうとしたら、まずはじめに思い浮かんだのが初詣だったので、これでは先が思いやられると思い過去を振り返るのはやめて、未来を見据えようと早くも心変わりをした、どうも松岡です。 ちなみに今年の初詣もまだ行ってません。大晦日に初詣に行くってのはどうでしょう。そうすれば今年の初詣と来年の初詣が同時に済むわけで手間も省けるってもんです。 今日は書くことを決めないまま書き始めているので、どこに話が飛ぶか分かりません。そんな気まぐれブログです。 仕事は相変わらず年明けから忙しくて毎週現場に行ってるんだけど、打ち合わせたことが全然反映されてなくてイライラします。現場監理されている方。現場ってそんな感じですか? この業界で言う「現場」って言うのは建築現場のことです。同じ図面を渡しても現場監督が違えば違ったものが出来上がります。といっても図面が変更されてたり性能が劣ってたりってことはないんだけど、ミリ単位で細かく設計してるので、そういう細かい部分はどうしても監督や職人さんの経験則で判断されてしまいがちです。図面で表現しきれない部分は模型を作って現場に「この通りに作って」と言うとその通りにできてたりします。 今んとこ大きな問題はないからいいのですが。4月の完成が楽しみです。 そんなことを思っていると現場にけたたましいサイレンの音が。何十台ものパトカーや消防車が押し寄せます。 火事です。

現場って言っても僕の現場じゃなくて近くのマンションなんだけど、窓から炎が噴き出してました。先週のことです。縦長の窓と横長の窓とでは炎の噴き出し方が違うと言う建築士の試験勉強で得た知識を披露する、おそらくもう2度とないチャンスが訪れたワケなんだけど、近くにいるのは監督と職人さんだけなので当然そんなことは知っているワケで、近所のヤジウマの子供をつかまえて教えたところでただのイタい奴だと思われるので我慢しました。 だからここに書きました。 で昨日も現場だったんだけど、近づいていくと周辺がなにやらあわただしい空気。警察車両も何台かあって赤いサイレンがクルクル回ってる。とうとうウチの現場が何かやらかしたか、と思ったら、現場の前面道路で車と子供の接触事故があったらしい。誰が運転しててもよけられないようなエキセントリックな飛び出し方を子供の方がしたらしい。救急車で運ばれていったけど幸いにもかすり傷で済んだようだ。 2週続けての事故。しかも事故現場がだんだん近づいてきてる。来週現場に行ったら「事件は近所で起きてんじゃない。現場で起きてんだっ!!」ってなってないことを祈るばかりです。 このセリフで思い出したけど、本広克行監督の最新作『SP』はスゴかった。映画と同じ機材で撮影された映像にはこだわりが感じられたし、カメラワークやカット割、編集や音楽もよく練られてて臨場感のある画作りに成功してた。 主人公の井上(岡田准一)は両親の死の場面に遭遇するという過酷な体験を経たことにより五感が異常に鋭くなり、“フォトグラフィック・メモリー”(一瞬で物事を映像として記憶できる)や特殊能力“トラッキング”(残された足跡などから情報を得る)能力を携えている。 この設定を思いついた時点で面白くなりそうな予感がする。実際面白かった。『踊る大捜査線 THE MOVIE 1&2』や『UDON』のような、どうしようもない駄作を時には生み出してしまう監督だけど 『SP』は地に足が付いてる感じがして良かったと思う。 何よりもキャスティングをタレントのネームバリューに頼らず、劇団で活躍してるような実力のある役者をそろえたところに監督の本気が感じられた。 特に圧倒的な存在感を放っていたのが真木よう子。さすが無名塾出身と言うだけあって、その演技力は他を圧倒してた。入るだけでも難しい無名塾を主宰の仲代達矢とケンカしてあっさりと退塾してしまうあたりは自信と実力を持ち合わせていたことの現われだと思う。 初めて真木よう子の演技を見たのは『砦なき者』だったけど、その時は驚いた。彼女の演技が浮きまくってたからだ。

ドラマや映画と言うのは言わずもがなツクリモノなわけで、鑑賞者は意識的か、もしくは無意識的に “役者”が“演じて”いることを前提として見ている。だから演技が下手な役者がセリフ口調でしゃべってたとしても、それはあくまで「前提」に立ち返っただけのことなので、意外と違和感を感じなかったりする。 そんな作られた世界の中でただ一人、極々自然な演技をしている役者が挿入されたら浮きまくることは必至だ。それが真木よう子だった。自然な演技とは究極的なことを言えば、「現実世界でたまたまカメラを回したらそこに人が映ってて、会話なり動作なりがなされていたという映像と区別が付かないような演技」のことだ。 とにかくまぁ真木よう子の素晴らしさは語るよりも実際に見たほうが早いので、『パッチギ』を観た後に『サマータイムマシンブルース』を観て、『東京フレンズ』は観ても観なくてもどっちでもいいけど、『ベロニカは死ぬことにした』を観れば理解されると思う。 そういった観点で付け加えるならば、中村ゆり(『パッチギ LOVE&PEACE』『天国からのラブレター』)と北川景子(『間宮兄弟』『モップガール』)にも注目している。まぁこのへんについては別の機会に。 岡田くん主演と言えば、先週公開された映画『陰日向に咲く』を観た。言わずと知れた劇団ひとりのベストセラーの映画化。原作は、どこか日の当たらない人たちをユーモア溢れる優しい視点で描いた連作で、本人にとっては一生懸命なんだけど端から見たらどこか滑稽で愛嬌のある“ダメな人たち”が綴る感動作だ。 でも映画はダメダメだった。 監督・平川雄一郎(『そのときは彼によろしく』)の名前を見た時点でちょっと不安だったけど、やっぱりダメだった。前作でもそうだったけど人間が全然描けていないのだ。 シンヤはただのバスの運転手(20代)だし、リュウタロウはただのサラリーマン(50代)だし、雷太はただの芸人(20代)だし、みゃーこはただのアイドル(25歳)だし、ゆうすけはただのオタク(20代)だし ジュピターはただのストリッパー(20代)だし、モーゼはただのホームレス(年齢不詳)でしかない。

描けていないからそれぞれの登場人物がこれまでどんな人生を歩んできたのかもわからないし、行動原理もはっきりしないから「なんで??」の連続だった。 シンヤが寿子を手助けする理由もわからないし、鳴子が雷太に惚れる理由もわからないし、リュウタロウがホームレスになりたがる理由もわからないし、みゃーこがゆうすけに気付いたキッカケもわからないし、他にもわからないことだらけだ。 僕は原作を読んでるからわかるけど、読んでない人はどう思って観てたんだろう。 この監督は人間を見る目が全くない。名前と職業と年齢設定だけがあって、その人物のエピソードを描かないから人間に血が通っていない。セットにマネキンを置いてアフレコしても全く同じ映画が出来上がってたと思う。せっかくいい役者をそろえているのに、もったいない。 さらにこの監督。決定的で致命的なミスを犯している。 タイトルの『陰日向に咲く』の解釈のしかたについて大きな勘違いをしているのだ。『陰日向に咲く』は語句で区切ると、「陰日向に・咲く」が正解だけど、この監督は「陰・日向に・咲く」と解釈している。 前者は主語を省略した語句で「陰日向に(何かが)咲く」っていう意味だけど、後者は主語の助詞を省略した文で「陰が日向に咲く」っていう意味だ。 これでは全く意味が違ってくる。そもそも「陰日向」って言う言葉を知らなかったんじゃないかと疑いたくなる。そんな間違いを犯しているから原作で描かれているラストシーンで読者がイメージした画と 映画で描かれているラストシーンではその意味合いが全く違っていて、なんか興ざめしてしまった。原作からの変更点も大きなマイナス要素だ。 こんな映画を観に行くお金があったらぜひ原作を買って読んで欲しい。 だいたい同じ値段だから。 と、まぁ今日は芋づる式に話を繋げていったけどキリがないのでこのへんで。 今日なんか雪降ってるね。


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