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『ポニョ』に見る理想の世界


オリンピックやかつてのドラクエ発売のように「ジブリ映画公開」という、ただのイベントとなってしまった感の否めない昨今、『崖の上のポニョ』も例外なくその道をたどった。作品の良し悪しや興味とは関係なく“イベントに乗っかるかどうか”という、これまでにない低いハードルを確立できたことは、もはやジブリの偉業と言っても良いかもしれない。 耳について離れない主題歌や、尾びれをスカートのようにひらひらさせながら泳ぐポニョの姿などはこの上なく可愛らしいし、監督の細かな人間観察の積み重ねによるディテールはまさにジブリクオリティだ。しかしこの映画は、それだけでは済ませられない奥深いものがある。それはある種の不気味さを孕むものだったりする。 一般的なこの映画への評価としては、「可愛らしい」とか「ほのぼのしている」とか「癒された」とかで、総称して「子供向け」というものだろう。しかし僕の感想としては、「これのどこが子供向けなの?」だ。この映画が子どもにむけて作られたものではないことは断言できる。 映画の観方やそれに対する意見は個々人の自由だし、良し悪しを言うつもりもないけど、作者には作者なりの意図があって作ってるわけだから、その意図を踏まえてこそ正確な判断ができるのだと思う。 この映画が「子供向け」と判断してしまうのはなぜなんだろう。動くもの全てが手書きの温かみのある絵だからか。パステル調の色彩によるほのぼのとした雰囲気だからか。それともNHKの特番で監督本人が「子供向けに作った」と言っていたからか。 おそらくそんな表層的な部分のみを見て判断しているんだと思うんだけど、でもそれって単に1秒間に24コマの連続写真を見て老人のインタビューを見ただけの感想でしかない。 本来観なきゃいけないのは『崖の上のポニョ』という「映画」だし、インタビューに答えているのがただの老人ではなくて宮崎駿だという点だ。 結論から言うとこの映画は子供向けの冒険ファンタジーなどではなく、生者の国と死者の国を行き来し「理想のあの世」を表現したものということになる。なるといったらなる。監督はもうすでに円熟したアニメ作家だから、どういう考え方で、とか、こういう経緯を経て、とか、こういう手法を用いて、とか、いちいち映画の中で説明してくれません。 「察しろ!」 監督はそう言っているんです。だからあんなにも「察する」手がかりがそこここに散りばめられていたわけだ。その手がかりに気づかずにスルーしてしまった人が「子供向け」と判断してしまうんですね。 大きなヒントはポニョが「ブリュンヒルデ」と呼ばれていること。映画を観たほとんどの人が唐突に出てきたこの「ブリュンヒルデ」という言葉に引っかかるものを感じたはずだ。その前後にこの言葉についての説明が何もないわけだから当然といえば当然だ。意味もなくそんな言葉を使うはずがないんだからその意味について考えるのが正しいやり方だ。スルーしてはいけない。 ブリュンヒルデといえば北欧神話に登場するワルキューレ(戦士の魂を死後の世界に運ぶ戦乙女)の長女であり、ローレライ(西洋版の船幽霊。歌で船乗りを惑わせ、海底に引きずり込む)ともつながりがある存在である。「ポニョの父・フジモト=ブリュンヒルデの父・オーディン」は北欧神話の主神であり、臨死体験を通じて魔術を得た死後の世界の王。ブリュンヒルデと恋に落ちる宗助=ジークフリードとくれば、そのネタ元はワーグナーの歌劇「ニーベルングの指輪」である。 つまりこの作品は「ポニョに魅入られて海の世界(=死者の国)に取り込まれそうになった宗助が、逆にポニョを人間にして陸の世界(=生者の世界)で永遠の愛を誓う」話である。そう考えるとこの作品が牧歌的な話などではなく、生者の国と死者の国を行き来する、かなり怖い話であることが見えてくる。中盤でポニョが波に乗って嵐と共にやってくるシーンにその片鱗が見て取れる。 監督は「神経症の時代に向けて作った」というが、むしろこの作品こそがパラノイア的で気味が悪く、絵本調のパステルカラーによる妙に明るい雰囲気とのギャップがその思いに輪をかける。これらの経緯からすでに監督の対外的なコメントと映画の内容が一致しないどころか、逆説的に扱われていることがわかる。 作家というものは概して自作に対して本心を語りたがらない。説明すること事態が愚の骨頂という気もするし、芸術であれ音楽であれ建築であれ、そこに生み出したものが全てなんだから説明なんてできないししたくない。映画もまた然りなのである。これはジャンルを問わず“ものづくり”に関わる人じゃないと理解できない感覚のような気もする。 しかも宮崎監督は、この映画に対する世間の印象と自身の思惑とのギャップを楽しんでいる感すらあるので一端の食わせ者だ。多くを語らない監督の作家性が垣間見えて非常に興味深いし、作家としてひとつの正しいスタンスだと思う。だからいくら監督が「子供向けに作った」と言っても、素直に聞き入れては駄目だということだ。 さっき唐突に「海の世界=死者の国」と書いたけど、これにもちゃんと根拠はある。海のシーンや水が関わるシーンには必ずといっていいほど「死」を連想させる描写が見られる。 例えば 世界が水没・トンネルの向こう・若返る老人 船の墓場・水没した町の人(死者)を船に乗せる船頭 古代生物・トキさんの言動・途絶える情報網 信号灯による送り火(迎え火)・産みの母の懐に還るというセリフ 落ちてくる月・津波 etc. 極めつけはエンドロールに出てくる崖の上の家が売りに出ていること。これはすでに住人がこの世にいないことの表現に他ならない。このショッキングな絵のバックでかかっている曲が例の♪ポ~ニョ ポ~ニョ ポニョ さかなの子♪ なのだから、監督は確実に確信犯だ。 このように海の世界はエントロピー的に完全にあの世として描かれている。 生と死を分かつシーンがどこだったかは正直わからないし、明確な線引きをあえてしなかったようにも思う。個人的な解釈であえてどこかで線引きをするならば、リサが宗佑を乗せて車で家に向かう途中 津波に備えて封鎖されようとしている海門を係員の注意を無視して突破するシーンを挙げる。その後から会話が噛み合わなくなり出すからだ。 これ以降、生者の国・死者の国・その境界の3つの世界がシームレスに繋がり話が展開していく。ほかにも文明や文化、環境や共生といった要素や、障害者や高齢化社会の問題もまじえており 半径3メートルの情景のなかに現代社会を濃縮した文芸的に価値の高い作品となっている。 監督はどうしてこんな絶望的な物語を作ったのか。かつて死と生とを行き渡るダイナミックな物語を作ってきた宮崎駿が、老人として死に向かいつつある中でその世界観を変節させてきているということなのか。 ハウルの動く城で「理想の老人介護」を追及した宮崎監督が、今回は「理想のあの世」を情け容赦なく見せつけることが目的であったならば、腑に落ちない話でもないのだけれど。いずれにしてもこの作品は底なしに陰鬱で楽しい作品ではない。 これのどこが「子供向け」なのか。 映画に限らず物事の表層的な部分だけを見ていると本質を見落とすことになる。同じお金を払って、同じものを観て、同じ時間を過ごしたのに得られるものにこんなにも差があることが非常に物悲しい。 子供が絵だけを見て喜ぶ分にはまったく問題ないと思うけど、大人がのん気に「ほのぼのしてて良かった」などと言っているのを見ると、なんだかなぁという気になる。 実際、子供でさえもこの映画が孕む不気味さを、おそらくは無意識的に感じ取って泣き出す例も少ないくないらしいから、われわれ大人はもう少し情報を読み取る感性を磨く必要がある。 この映画はとても評価しにくい作品だけど、『もののけ姫』以降しょーもないのが続いた中で久しぶりに映画らしい映画という感じがして、しかも作家・宮崎駿の思惑が垣間見えたという意味では大変興味深い。 これは子供向けの「商品」であるかもしれないけど、その実は大人向けの「作品」であることはまず間違いない。だから、この映画を観た正しい子供の反応は「ポカンとする」もしくは「怖がって泣く」。

それを分かっていて確信犯的に「子供向けです」と言い切るのだから、宮崎監督はやはり人が悪い。これを子供に見せようという監督のセンスはやはり相当キレている。 もちろんいい意味で。


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